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■幼児の塩分摂取量■
乳幼児の1日の「適正塩分摂取量」はどれくらいか、ご存知ですか。乳児の場合1日0.3〜1g、幼児で2〜3gです。この数字は、味つけした離乳食を食べる機会の少ない離乳初期、中期まではほぼ維持されています。ところが大人のメニューからの取り分け食が始まる離乳後期になるとぐんと増え、幼児食の時期には1日の摂取量は平均6〜9gにもなってしまいます。これは適正摂取量の2〜3倍。ちょっと多すぎますね。
塩分は欠かせない栄養素の一つですが、とりすぎると未発達な腎臓に余計な負担をかけ、塩分過剰な食生活を続けることによって将来恐ろしい生活習慣病を引き起こすことにもなります。早い時期から子どもに正しい食習慣を身につけさせて、このような病気から守ってあげることが大切です。
大正から昭和時代初期にかけては急行列車の黄金時代で、日本の多くの幹線で設定された。その頃の特急列車は東海道本線・山陽本線の「富士(ふじ)」・「櫻(さくら)」・「燕(つばめ)」・「鴎(かもめ)」の4種類しかなかったので、東北本線などその他の幹線では急行列車は「最優等列車」として君臨し、「特急列車」にも引けを取らない列車も多く存在した。1934年(昭和9年)12月、丹那トンネルなどが開通した時に行われたダイヤ改正時の、そのような列車には次のようなものがある。
塩分
(東海道本線・山陽本線・呉線)東京駅〜下関駅間運転。終点下関駅では、関釜航路(下関〜釜山)と接続し、朝鮮、満州、中国、そしてシベリア鉄道を経由してモスクワ(ロシア)、ベルリン(ドイツ)、ロンドン(イギリス)などへという、国際連絡運輸の一翼を担うという役割も果たしていたほか、呉線全通後は同線を経由することで、呉鎮守府及び呉在籍の艦船に赴任・出張する海軍士官の足となった。格別な列車として、一等・二等・三等の各等の座席車・寝台車をすべて連結した。食堂車は他の多くの列車が「和食堂車」である中、「洋食堂車」であった。当時、「洋食堂車」のほうが高級感があったからである。昼行区間(京都〜下関間)では一等展望車も連結した。
17・18列車
(東海道本線)東京駅〜神戸駅間運転。関東と関西を結ぶ夜行列車で、神戸では満州の大連などへの航路にも接続していた。一・二等寝台車と洋食堂車を連結していたが三等車は連結されず、また座席車は二等車の一両のみであり、ある意味では「寝台列車」の走りともいえるような列車であった。その高貴性から政府などの要人や著名人などが多く使用し、「名士列車」と呼ばれた。
201・202列車
(常磐線・東北本線)上野駅〜青森駅間運転。東北本線の列車には、北海道・樺太連絡の使命も与えられていたが、この列車はそれらのなかでも最も重要な位置付けをされていた。二・三等車のみで一等車は無かったが、二等寝台車の一部には「特別室」と呼ばれる一等寝台車並みの設備を持った車両が連結されていた。またこの改正時に大幅な速度向上が行われており、上野駅〜青森駅間を下りが12時間45分、上りにいたっては12時間25分で走破し、上り列車の平均時速は60.46kmにも達していた。1940年(昭和15年)10月、上り列車は所要時間をさらに5分短縮し、この記録は1958年(昭和33年)10月に、東北初の特急列車「はつかり」が登場(上野駅〜青森駅間を上下列車とも12時間で運転)するまでの18年間も破られなかった。
1・2列車
(函館本線・室蘭本線・宗谷本線)函館駅〜札幌駅・稚内駅間運転。上記の201・202列車と青函連絡船をはさんで接続する列車で、下りの場合長万部駅で函館本線経由札幌駅行きと、室蘭本線経由稚内駅行きとを切り離した。(上りも同駅で併結した)この列車にも「特別室」が設けられていて、稚内駅では樺太の大泊(現、コルサコフ)への航路と接続した。
急行列車は日中戦争に突入しても、そのために満州や樺太などへの需要が増したことから、各地で増発が続けられるが、太平洋戦争の戦況が悪化してきた1943年(昭和18年)2月ごろから削減されるようになった。
1944年(昭和19年)4月に特急列車が全廃、そして1945年(昭和20年)3月に、全国でも急行列車は東京駅〜下関駅間(6月から東京駅〜門司駅間)の1往復のみとなってしまう。
戦後は
冷凍食品・整備の事情が戦時中以上に悪化し、1947年(昭和22年)1月〜4月にはついに急行列車が消滅するという事態も迎えている。しかし同年6月ごろからは、日本全国に準急列車とともに増発・新設されていくことになる。戦後はいわゆるローカル線などにも広く設定されていった。しかし準急列車は急行列車に統合される形で1966年(昭和41年)3月に本来の意味での「準急列車」は消滅、残りも1968年(昭和43年)10月に姿を消す。
かつては、
英語研修の中央線や関西地区の東海道本線・山陽本線、阪和線といった路線では、急行料金不要の列車として、急行列車ではなく「急行電車」(急電とも)という列車が運行されていた。しかし、同様の種別名称で料金が必要なものとそうでないものが混在するのは、旅客案内上好ましくないことから、1958年(昭和33年)10月に「急行電車」は「快速電車」に改称された。
戦時買収私鉄であった阪和線では「特急電車」・「準急電車」も存在したが、この時に「特急電車」を「快速電車」に、「急行電車」と「準急電車」は「直行電車」(後に「区間快速」)とした。なお、東海道本線・山陽本線での「急電」については新快速の項目も参照されたい。
横浜 一戸建ての最盛期となる昭和40年代には数多くの列車が設定されたが、その中には非常な長距離を走るもの、運転区間が独特なもの、分割・併結を繰り返すものなど、さまざまな特徴を持った列車も多く存在することとなった。1968年(昭和43年)10月改正(通称「ヨン・サン・トオ」)時の、それらの一例には下記のような列車がある。
高千穂
(東海道本線・山陽本線・日豊本線)東京駅〜西鹿児島駅間運転。日豊本線周りで東京から西鹿児島までの1574.2kmを、この当時は28時間15分もかけて走破するという、屈指の長距離列車であった。なお、1965年(昭和40年)10月〜1980年(昭和55年)10月の寝台特急列車(いわゆるブルートレイン)「富士」も同区間を運行していたが、「急行列車」の中では最長であった。なお、1968年10月のいわゆる「ヨンサントオ改正」より東京駅から門司駅までは鹿児島本線経由の「霧島」(のちに「桜島」と変更)と併結して運転し、またこの当時の東海道本線では唯一の昼行客車列車であった。
さんべ
(山陰本線・美祢線・山口線・山陽本線・鹿児島本線)米子駅〜小郡駅・小倉駅・博多駅・熊本駅間運転。この当時は昼行2往復、夜行1往復の計3往復が設定されていたが、下りの「さんべ2号」と上りの「さんべ1号」は運転経路が複雑であった。下りの「さんべ2号」の場合、米子駅を発車して益田駅で山口線経由小郡駅行きの列車をまず分割するが、長門市駅でも山陰本線経由と美祢線・山陽本線経由の列車を分割して、その分割した編成を再び下関駅で併結するという運用を行っていたのである。この後もこの列車は昭和50年代末まで運行され、西村京太郎の作品の影響だろうか、いつしか「再婚列車」と呼ばれるようにもなっていた。
陸中
(東北本線・マンション 横浜・山田線・花輪線・奥羽本線)仙台駅〜秋田駅間運転。この列車は当時、仙台駅から秋田駅までを最短経路の北上線を経由する急行「きたかみ」では、同区間は当時4時間半で運行できるものを釜石線、山田線、花輪線を経由し13時間半もかけて運転するという、運転経路も奇妙なものであったが、それ以上に分割・併結の複雑な多層建て列車が多く存在した東北地区を象徴するような列車でもあった(詳しくは、はまゆり (列車)の記事を参照)。
特別急行列車が文字通りの「特別」な列車であった時代は、急行列車は庶民の足として日本全国津々浦々で運転されていたが、1964年(昭和39年)10月に新幹線が、そして1972年(昭和47年)10月にエル特急が登場すると特急の大衆化が進む。経済の高度成長に伴う鉄道輸送の逼迫から列車運行速度の異なる急行形車両(運転最高速度95km/h〜110km/h)がダイヤ上のネックとなった。中長距離は特急列車に格上げし、近距離や一部の中距離列車を快速に格下げすることにより、列車速度の単純化と陳腐化していた急行列車のサービス向上とを図った。こういった施策は自動車の普及したこの時期においては不可避だったとはいえ、特急格上げの際に車内設備の改善はともかく、所要時間短縮が少なかったことから、国鉄の増収手段の一つという批判も強かった。
この時期には、いわゆる新性能電車との置き換えなどにより、臨時列車(「はりま」など)や大都市圏(とりわけ首都圏・「かいじ」など)では、所定の車両が揃わない等の理由で、近郊形電車や一般形車両により運行される急行列車もあった。それらの列車は「遜色急行」(そんしょくきゅうこう)と一部の鉄道ファンから揶揄された。これはかつての準急行列車が速度を第一とし、その対価として急行料金に比べ安価な準急行料金を徴したのだが、その準急以下と見られたからである。
急行全盛期の列車編成に欠かすことのできない車両として、特別二等車・二等車(共に後の一等車・グリーン車)、食堂車(ないしは、ビュッフェ)・荷物車が挙げられたことから、ダイヤグラム作成に際して速度を含めて優等車両を備えた列車のことを、略して「優等列車」と呼ぶようになったともいわれている。
こういう経過の中でも存置された急行列車は、次第に特急と普通列車にはさまれた中途半端な存在として利用客が減少していった。
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